地元暮らしをちょっぴり楽しくするようなオリジナル情報なら、白井の地域情報サイト「しろいまっち」!
文字サイズ文字を小さくする文字を大きくする

白井の地域情報サイト「しろいまっち」

白井市の事業を紹介します

平和教育集会「被爆体験伝承者の方から広島の原爆について」

原爆体験談の語り部 星川雅先生のお話し

被爆体験伝承者の方から広島の原爆について、公益財団法人広島平和文化センターより、被爆体験伝承者 星川雅先生をお招きし被爆当時の現状や惨事をスライドを見ながら戦争の恐ろしさを学び、平和について今一度考え直す貴重な機会となりました。全世界唯一被爆国の日本では広島・長崎で投下された原爆、中でも広島に投下された原爆体験談の語り部、星川先生の講和を受講しました。

広島平和文化センター被爆体験伝承者 星川 雅先生

ご略歴:

日本赤十字社特別社員

東京都日赤紺綬有功会会員

東北学院大学文学部英文学科にて、主として米英思想史を学び、同時に日米の歴史比較研究を重ねる。卒業後は運送業、小売業、大手金融機関等で勤務経験を積み、2018年4月より公益財団法人広島平和文化センターにて、被爆体験継承者として活動を開始。2017年には日本赤十字社より金色有功章を授与され、現在は広島市内のみならず全国各地で講和を行っている。

〈出典:白井中学校資料より〉

講和開催前も白井中学校生徒の皆さんは、とても規律正しく一切私語がありませんでした。静寂の中、開催時間を待つ生徒さんの後姿に感動しました。

「平和教育集会」開幕

只今より、平和教育集会を始めます。

村田教頭先生による、開会のことば。

公益財団法人広島平和文化センターより、被爆体験伝承者 星川雅先生にご来校頂きました。本日の開催にあたり主催のPTA本部の方々のご協力を頂きました。

新型コロナウィルスのため原爆資料館では開催出来ない環境になり、各地で開催されているそうです。

原爆投下された、中島地区(4400名が居住)は広島で一位二位を争う繁華街に立地していたそうです。

原爆が落ちて何人ぐらい助かったと思いますか?

8時15分、朝の始まりの時間帯に落ちてきたのです。

その時間たまたま地下で作業をされていた方が生き残られたという当時の状況を細かく説明くださいました。

原爆投下時、広島市中島地区に4,400名お住まいだったのですが、生存者数は、30%?20%?10%?・・・僅かお一人だけだったそうです。どれだけ怖い思いをしたのか。星川先生からのお話は、受講した生徒たちと同世代だった当時の方々の体験談を交えてお話が進んで行きました。

爆弾の熱線は約100万度、爆心地上空600mで破裂した原爆の熱線が3~4000度で地面に到達するのだそうです。さらに爆風は、1×1×1mに11tの圧力で衝突するような衝撃なのだそうです。建物・人体への被害の凄まじさを交えて、解説してくださいました。

現代では、祖父祖母から戦争体験を実際聞かれた事のある生徒さんが、殆どいないという事が問題になってきているのです。

戦争に対して正しい理解が出来ない時代が来ることが一番の問題なのです。正しい情報が、正確に伝えられる社会にしていかなくてなりません。

さて当時日本は、どこの国と戦争をしていたかご存知でしょうか?米国?中国?露国?英国?今や大人も正確に知らない方も多いのです。

当時の日本は、47カ国と戦争をしていたのです。なぜそのような事になったのか?どうして日本に原爆が投下される事になったのか?正しい歴史を学ぶ必要があるのです。

星川先生の講和の後、白井中学校生徒さんからお礼

今でも放射線や爆風、熱線で苦しんでいる人達が多くいらっしゃいます。原爆を体験した事を健康被害を国内外で伝えておられます。

星川先生のお話をお聞きし、原爆とは本当に恐ろしいものだと思いました。これからは一人一人が、平和についてしっかり考えていきたいと思いました。

市立白井中学校 島田校長先生

教育の大切さを痛感しました。戦争原爆の恐ろしさを生徒たちに伝えていかなければならないと感じてなりません。3度ほど平和記念資料館に訪問しました。その際来館していた日本人よりも、外国人観光客の皆さんが真剣に資料に目を通している姿を見て、平和記念資料館を訪れた事は大変勉強になりました。生徒のみなさんもぜひ、原爆資料館に行く機会を設け、説明員さんのお話を聞いて勉強してほしいと思います。

広島平和記念資料館ホームページ

広島市原爆・平和サイト(広島市のサイトにリンクします)

平和宣言「令和2年(2020年)」
1945年8月6日、広島は一発の原子爆弾により破壊し尽くされ、「75年間は草木も生えぬ」と言われました。しかし広島は今、復興を遂げて、世界中から多くの人々が訪れる平和を象徴する都市になっています。

今、私たちは、新型コロナウイルスという人類に対する新たな脅威に立ち向かい、もがいていますが、この脅威は、悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか。

およそ100年前に流行したスペイン風邪は、第一次世界大戦中で敵対する国家間での「連帯」が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥(おとしい)れました。その後、国家主義の台頭もあって、第二次世界大戦へと突入し、原爆投下へと繋がりました。

こうした過去の苦い経験を決して繰り返してはなりません。そのために、私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、「連帯」して脅威に立ち向かわなければなりません。

原爆投下の翌日、「橋の上にはズラリと負傷した人や既に息の絶えている多くの被災者が横たわっていた。大半が火傷で、皮膚が垂れ下がっていた。『水をくれ、水をくれ』と多くの人が水を求めていた。」という惨状を体験し、「自分のこと、あるいは自国のことばかり考えるから争いになるのです。」という当時13歳であった男性の訴え。
昨年11月、被爆地を訪れ、「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。」と発信されたローマ教皇の力強いメッセージ。
そして、国連難民高等弁務官として、難民対策に情熱を注がれた緒方貞子氏の「大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから。」という実体験からの言葉。
これらの言葉は、人類の脅威に対しては、悲惨な過去を繰り返さないように「連帯」して立ち向かうべきであることを示唆しています。

今の広島があるのは、私たちの先人が互いを思いやり、「連帯」して苦難に立ち向かった成果です。実際、平和記念資料館を訪れた海外の方々から「自分たちのこととして悲劇について学んだ。」、「人類の未来のための教訓だ。」という声も寄せられる中、これからの広島は、世界中の人々が核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて「連帯」することを市民社会の総意にしていく責務があると考えます。

ところで、国連に目を向けてみると、50年前に制定されたNPT(核兵器不拡散条約)と、3年前に成立した核兵器禁止条約は、ともに核兵器廃絶に不可欠な条約であり、次世代に確実に「継続」すべき枠組みであるにもかかわらず、その動向が不透明となっています。世界の指導者は、今こそ、この枠組みを有効に機能させるための決意を固めるべきではないでしょうか。

そのために広島を訪れ、被爆の実相を深く理解されることを強く求めます。その上で、NPT再検討会議において、NPTで定められた核軍縮を誠実に交渉する義務を踏まえつつ、建設的対話を「継続」し、核兵器に頼らない安全保障体制の構築に向け、全力を尽くしていただきたい。

日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めて同条約の締約国になり、唯一の戦争被爆国として、世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し「連帯」するよう訴えていただきたい。また、平均年齢が83歳を超えた被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断を、改めて強く求めます。

本日、被爆75周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。

令和2年(2020年)8月6日

広島市長 松井 一實

「出典:広島市役所ホームページ」

この記事に関するキーワード