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白井市文化財講演会『千葉氏と妙見信仰について』が開催

2024年6月22日、令和6年度第23回文化財講演会が開催されました。

 

講師に千葉県文書館 鈴木 佐(すずき たすく)氏を迎え、桓武天皇の血を引く関東の名族 千葉氏と妙見信仰との関係についての講演でした。

主催:白井市教育委員会

共催:白井市文化財審議会

白井市教育委員会 井上教育長あいさつ

白井市にはかつて妙見神社がありました。そこに祀られていた妙見菩薩像が調査の結果13世紀鎌倉時代のものであることが分かり、教育委員会では所有者の協力を得て、デジタルデータに変換し実物大の模型を郷土資料館に展示しております。今回の講演会でより白井市の歴史や文化を知っていただく機会になればと思っております。

白井市文化財審議会 古里会長あいさつ

中世の古文書が特に東日本では殆どありません。その欠を補うものとして千葉氏ゆかりの遺跡・伝承の採集と現地調査といった鈴木先生独自の方法論が伺えるのではないかと楽しみにしております。千葉氏と妙見信仰の実態を理解しているかといえば心もとないものがあります。今回鈴木先生のご研究の一端をお話いただける事でその蒙が開かれるものと楽しみにしており ます。

千葉氏と妙見信仰について

 

※出典:千葉氏と妙見信仰について資料より抜粋

講師:千葉県文書館 鈴木 佐 氏。

千葉氏研究家。全国千葉氏ゆかりの遺跡や歴史、伝承を長年にわたり採集しながら現地調査を行う。

1:妙見信仰について
妙見菩薩は「妙見尊星(そんじょう)王」、「北辰菩薩」ともいう。

元は中央アジア周辺で起こった星の信仰である。昼間は灼熱の砂漠に活動することは困難である。そのために夜に行動をすることが多くなる。そこで夜間行動する目印となったのが北極星である。しかし、北極星を探すのは難しいので柄杓型の北斗七星を見つけやすいことから信仰の対象になったと思われる。野尻抱影の随筆「星と東西民俗」には、「北極星を体の一部の方向にあわせて、進行方向の星を決定し、その星を見据えたまま、まっすぐ歩く」とある。

 

2:生死を司る神
妙見は、生死を司る神といわれている。その根拠の一つとして、四世紀の東晋(中国)の干宝が記した志怪小説集「捜神記」がある。『南斗は生を注(しる)し、北斗志を注す、凡そ人の胎を受くる、皆南斗より北斗に過ぐ 祈り求める所あれば皆北斗に向かう』とある。後に、道教の信仰も入りこみ、道教の老仙思想から「延命長寿の神」に変貌するという説もある。


3:進化し続ける神
このように妙見はいろいろな信仰を取り込んで、進化している。現在も未解明なところが多い。中国では「道教」と習合しており、亀と蛇(玄武)が像に描かれるようになる。日本に入ってくると「八幡信仰」と習合し、剣を持つ武神像になる。さらに「祇園信仰」とも習合するようになる。

4:千葉氏が信仰した妙見
北斗山金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)はかつて千葉氏の信仰の中心であった。明治以後は、天御中主大神を祭神とする神社となっている。
千葉の妙見菩薩の本地佛については「千葉妙見大縁起絵巻」によれば薬師如来像が相当する。「源平闘諍録」では、十一面観音像であるという。時代によって、変遷しているともいえる。

 

5:千葉氏と妙見信仰の関わり
江戸時代に創作された「千学集抜粋」などの文献では、平将門の乱の際に上野国(群馬県)で将門と良文が国香の軍と合戦した際に、妙見菩薩が現れ助けたとして軍神として描かれている。


その後、上野国から武蔵国を経て、上総国さらには下総国に伝来したと記されている。
福田豊彦氏は「源平闘諍録」を解説されたが、これは「平家物語の千葉版」ともいわれ、鎌倉後期から南北朝期にかけて千葉氏関係者による創作された物語であり、画期的な発見である。
妙見菩薩については、弓箭神(軍神)として登場する。福田氏は妙見説話について、宝治合戦以後に述作されたものではないかと論じている。


野口実氏は、宝治合戦による上総千葉氏の滅亡とともに、下総千葉氏の当主が若年で死去する中、幼少時の頼胤を支えるため、叔父の泰胤が後見役となって、下総千葉氏への一族再編と統合化がなされた。その一族統合化の一つとして、北斗山金剛授寺の造営し、千葉氏の儀式や祭礼を行うなど、妙見信仰を一族の統率のために利用したとする。この説について異説も存在するが私はこの説を支持したい。

6:全国に伝播した妙見信仰と文化
千葉一族は、北は宮城県から南は鹿児島県まで領地を賜わり、一族が下向していくが、それに伴い妙見信仰をもたらしている。その一部を紹介する。

 

(一)肥前千葉氏:千葉宗胤・胤貞が元寇に伴い、肥前国小城(佐賀県小城市)に下向。小城には日蓮宗・光勝寺や臨済宗圓通寺を創建するとともに、妙見をもたらす。祇園社には妙見が祀られていたこともあり祇園社の祭礼は千葉氏の軍事教練ともいわれ、いまなお「小城の祇園会」として有名である。


(二)陸奥相馬氏:常胤の次男・相馬師常の末裔が陸奥行方郡(福島県南相馬市・相馬市)に下向。相馬氏は鎌倉以来、明治維新まで同じ領地を維持できた稀な大名である。太田館(太田神社)、小高館(小高神社)、中村城(中村神社)とそれぞれの地に妙見を祀る。その妙見の祭礼は「相馬野馬追」と呼ばれ、全国的に有名である。

 

(三)陸奥武石氏(亘理氏 涌谷伊達氏):常胤の三男・武石胤盛の末裔が陸奥亘理(宮城県亘理町)に下向、亘理と名乗る。その後、伊達氏の傘下に入り、江戸時代には涌谷(宮城県涌谷町)二万三千石の邑主となる。妙見を奉斎し、涌谷妙見宮が鎮座する。妙見の祭礼で演舞される「古式獅子舞」は江戸初期からのものであるが、今なお子供たちによって演舞されている。

 

(四)美濃東氏:千葉常胤の六男・東胤頼の末裔が美濃国郡上郡(岐阜県郡上市)へ下向。美濃東氏は古今伝授を創始した東常縁を輩出する。東氏の居城・篠脇城下(郡上市大和町牧)に鎮座する明建神社は妙見社であり、八月七日に行われる「七日祭り」は下総国から移住した人々により、祭礼が執行される(宮座制)。この時に奉納される田楽踊りは中世の踊りを残していると言われている。

千葉氏について

 

千葉市ホームページに、千葉氏のはじまりが分かる「千葉氏ポータルサイト」が開設されています。ぜひご覧ください。

妙見菩薩立像3Dプリントメイキングムービー

この妙見菩薩立像は、千葉県白井市の神々廻地区にかつてあった妙見神社にまつられていた鎌倉時代(13世紀後半)の銅像を3Dスキャンし、プリントしたものです。 妙見菩薩は、鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍した千葉氏一族が信仰したことで知られ、妙見菩薩立像の存在は、千葉氏一族が当地に居たことを示すものと言えます。

この妙見菩薩立像の原品は個人蔵のため非公開ですが、白井市の歴史を考える上で重要なものであることから、実物大の3Dプリント模型として白井市郷土資料館で展示します。 その製作過程を動画にまとめましたので、ご紹介します。

※出典:しろいTV公式チャンネル

 

【お問合せ】

白井市教育委員会生涯学習課文化班 

047-492-1123

取材日:2024年6月22日

【最後に】鈴木先生は、千葉常胤と源頼朝との繋がりや、千葉氏と日蓮聖人との深い関係もあったとされる説を織り交ぜながら話され、日頃から歴史・考古学を研鑽される皆さんが聞き入っていました。

 

白井市文化財講演会では毎回文化財研究の第一人者が招かれ、講師の興味深い講演を聞くことができます。歴史・考古学ファンの皆さんにはぜひお勧めしたいです。次回の開催が分かり次第、しろいまっちで紹介しますのでお楽しみにしていてください。

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。